2011年5月28日土曜日

第5回

なんと今回は間あけずに第五回!!


さて今回は・・・・・・・パフォーマンス・アートです

パフォーマンスをアートと呼ぶのかどうかという人もいるかもしれません。しかし今回はパフォーマンスをアートの一環として捉えて話して行きます。

まずパフォーマンスというと美術と関係ない人は「サーカス」「パントマイム」「バレエ」「舞台」「ライブ」といったところを想像されるかと思います。しかし今回はパフォーマンスとパフォーマンス・アートと区切って考えて行きたいと思います。

決してサーカスはバレエといったものがパフォーマンスでないとかアーティスティックではないといった否定をするつもりはありません。今回対象としたいのは特に美しい動きや様相でもなく、サーカスのようにアクロバティックでもなく、舞台のように何か物語りを演じるわけでもないパフォーマンス表現をパフォーマンス・アートとします。

まずはわかりやすくいつものように作家を挙げて解説していきたいと思います。
今回取り上げる作家は

マリーナ・アブラモヴィッチ

です。
彼女はベネチアビエンナーレにも何回も作家として行っているとても有名な作家(パフォーマー)です。美術館で行ったパフォーマンスとして、机と椅子があり作家のマリーナ・アブラモヴィッチが座っています。向かい合うように椅子が用意されており、誰でもそこに座って構わないというもので。座って見ると机をはさんだ調度微妙な距離にアブラモヴィッチの顔があり、じーーーーーっと見つめられます。このいすに座ると自分と作家が向かい合ってただ見つめているだけの状態が他の鑑賞者によってまた見られます。マリーナ・アブラモヴィッチの作品の場合鑑賞者にパフォーマンスの終わりを非常によくゆだねる傾向があります。これはパフォーマンスと言う物を完結したストーリーとして捉えているのではなく、鑑賞者自身の人間的な関係性の物語として扱っているためなのです。

パフォーマンスの論文をかいたエリカ・フィッシャー・リヒテはこのように鑑賞者がパフォーマーとなり、またそれが他の鑑賞者に対するパフォーマンスとなりさらにパフォーマー自身にその結果が返ってきて、それが鑑賞者に伝わり・・・・・・・という循環作用を「役割交換」の述べています。

この「役割交換」、パフォーマンス以外に可能なのでしょうか。彫刻や絵画といった面であいまいな部分があるように美術の分野において領域と言う物は非常にあいまいなもの(彫刻に色を塗った場合絵画的要素も含むし、絵画を立体に起こすこともあるように)なのですが、役割交換が出来る美術は今のところパフォーマンス・アートだけなのではないでしょうか。

ここからはかなりまどろっこしい書き方になりますが、皆さんも自分の考えを持ちながら読んでみてください。いろいろと読んでいくたびに納得させて裏切っていきます。美術を考える面白さがわかるかもしれません

さてパフォーマンス・アートには必ずしも役割交換が存在しているわけではありません。あくまで今回述べているのは役割交換を用いた作品はパフォーマンス・アートとなるということです。役割交換がないものとしてはイブ・クラインの裸の女性によるペインティングや土方巽の始めた舞踏などがあると思いますが、ここでまた共通項が見えてきます。それは当たり前に思うかもしれませんが「動き」が作品となっていることです。
 なぜならパフォーマンス・アートは写真としては成立しない。それはあくまで結果であり、パフォーマンスの写真は他の立体、平面作品を人づてで話に聞くようなものでまったくその形や詳細がわからない。ただの結果である。ということは動きがなければパフォーマンスとならない。





とおもいますか?
それではジョン・ケージの「4分33秒」
これはパフォーマンスではないのでしょうか。
この作品はピアニストが4分33秒ただピアノの前に座ってまったく動かないまま過ごし、終わるものです。ここではパフォーマーである演奏家は「4分33秒」の作品が始まった瞬間から終わる瞬間まで微動だにしません。音楽というものを演奏を聴くものとおもっている聴衆に実は演奏中に本来耳に入っている(でも脳が勝手に遮断している)空調や聴衆の出す音と言う物だけに集中させる列記としたパフォーマンスです。

どうでしょう。なかなか一つの分野だけでも意味がわからなくなってきたと思います。

とりあえず私の今いえる結論としては「役割交換」又は「動き」の両方ないし片方を持ち合わせているものがパフォーマンスアートとして成り立っているということです。

今回はちょっとまだ調べてない部分もあるのでいったん終わりにします。そのうちまたパフォーマンス・アートは深く掘り下げて解説したいと思います。(いつか・・・)

それでは第6回 乞うご期待

2011年5月17日火曜日

第4回 ミニマリズムともの派

えー間が開きましたが第4回行こうと思います。

相変わらず前回の予告無視で。

今回はミニマリズムともの派です。

美術館に行くとただ箱が置いてあるだけ、石があるだけ、木が一本たっているだけ、といった「これはどこら辺がアートなのだろうか?」と誰しもが最初に行き当たる立体がありますね。そこを今回は解説していこうとおもいます。

まず。ミニマリズムともの派はまったく違います。あまりにも違います。にもかかわらず作品がすごくシンプルなため西洋=ミニマリズム、東洋=もの派と勝手に似たようなものとしてとらえている人が多いのです。もう一度言います。ミニマリズムともの派はまったく違います。

さてミニマリズムやもの派の解説からしていきます。

ミニマリズムまたはミニマルアートとは形態や色といった要素を最小限まで突き詰めようとしています。
一言で言うとこれで終わりです。



でももうちょっと詳しく
あるものを見せるにあたりいろいろな要素が入るのを防いでいるのです。つまりもし「四角」という形を見せるのにそれが木彫でつくってしまうと、作家が四角くした行為であったり材質といった要素が入ってきてしまいます。作家や材質は要素なんです。つまりもし丸太を四角く彫ってみたとき、作家が違えば微妙に形も変わってくるでしょうし、材質が変わればそれでまた変わってしまいます。よってミニマリズムの作品は図面だけ書いて工場に発注したものや作家本人が作ったものではないもの、レディーメイドといわれる製品を並べたものなどいろいろあります。
今回はドナルド・ジャッドという作家をミニマリズムの例に挙げてみます。
彼は箱のようなものを等間隔で並べただけの作品などが有名です。彼の箱は展示するギャラリーに本当に箱の厚み分の隙間を開けて並べているだけです。それは箱と箱の間にある空間、その空間が並べてある箱とまったく同じ体積分になっており、とにかく作品は箱だけでなくその間にある空間も含めて作品と言っています。それではこの箱がもし作家の独自的な感覚で並べられていたらどうでしょう?まったくただの箱になります。
つまりミニマリズムの作品の難解さは一歩間違えればただの箱になってしまうように、非常に形をいじるのも、色いしても最小限まで削られてしまっているので美術作品を見慣れない人は本当にどのあたりが美術なのかと思ってしまうでしょう。長くなってきたのでまとめるとミニマリズムは当時作品として成り立つ「最小限」を目指した作品のつくり方の流行として思っておいてください。


そして今度はもの派です。
もの派はたまーーーにいますがmono派とつまり単一派?とかってに勘違いしているという人がいるうわさを以前耳にしましたが・・・・・・・・そんなわけありません。

え、まさかもの派のものって日本語の「物」?
そうです。日本で誕生した美術の流れなんです。
ミニマリズムと似ているところをあげるとあまり手を加えないところでしょうか。石をそのまま美術館に持ってきたり、土を掘って積み上げただけだったり。作品だけ見ると混乱する人も多いかもしれません。
しかしもの派は外国、特に西洋にはありえない思想が元になっているのです。東洋、特に日本は自然崇拝てきな文化がありますね。つまり富士山であったり滝といったもので、日本庭園なんか見ても、西洋の庭のようにきっちりと区分けするのではなく、曲がった川に、コケが生えた石を置くなど、小さなものに大自然を写しこむような文化があるのは分かると思います。
平たく言うとこの部分を作品化しようとしているのです。石を美術館に持ってきて見せようとしているのは石そのものなんです。だからモノ派といわれます。
じゃあ石見るだけならどこでもいいじゃんというあなた。まぁそうです。でも石・・・・じっくりみますか?
モノ派の石の場合いくつか意味があり、ひとつは先述の石そのものを見る。これは石というものは自然によって彫刻された形であり、それが今ここにある「形」としてみてみようという試み。人がつくった形は図面でどうにかなるかもしれないが、自然形態そのものによって偶然的に出来上がる形を見せるということ。もうひとつはそこから自然のすごさであったり自然そのものへの意識を持っていくということ。その1と被るけど、石をそのかたちまで持っていった自然というもののすごさであったり、石を見てそこから大自然を連想したりとちょっと俳句的な要素を兼ね備えているものなんです。
松尾芭蕉の俳句に「五月雨を、あつめてはやし、最上川」とありますが五月雨つまり、ただの大雨から最上川の豪流を連想させるということを日本人は自然とつなげてきているのです。この俳句を聞いた人は最上川にいったことがなくても近くの川が大雨で氾濫したときからさらに大きなものを想像すると思います。
というように、モノ派はミニマリズムと大きく違うのは作家が手を加えないのは自然に対しての想像の広がりを期待しているからという点でしょうか。
ミニマリズムはむしろ逆で自然とか作家の性格とかをその作品から読み取らせず単純に形や色といった部分だけを見せようとしているため、作品は手を加えない点で似ていても間逆の期待を鑑賞者に対して投げかけているのです。

作品の写真だけ見てミニマリズムなのかモノ派なのか判別つきにくいものも多いため、よくごっちゃになっているため西洋版、日本版くらいで分けてしまう人も多く見かけますが、あくまで逆。ミニマリズムは連想させない。ただある体積であったり数値であったりとものすごく物理的な部分のみ「しかみせない」ことに重点を置いており、モノ派はそのものから自然というものや物自体が持っている力強さや弱さ、またそのもの同士の比較といった見た目以上の部分までを連想させていろいろな見落としていた部分を「みせる」というのが重要ということです。

すでにミニマリズムもポストミニマリズム時代もおわり、モノ派もポストモノ派が終わっているのでいまさらってところもありますが、美術館でミニマリズムやモノ派の作品を見たときちょっと思い出してみてください。

それでは第5回は・・・・・もう予告しません。どうせ予告守らないし。気が向いたときまた書きます!ではでは