2014年4月9日水曜日

第10回 スナフキンと現象学と闇夜のカラス

えーしばらく間があきましたがついにブログ更新2ケタ突入!なんと第10回目です。
今回はいつもとは趣向を変えて、ムーミンにでてくる「スナフキン」というキャラクターをもとに現象学をあてはめて考えていきたいと思います。

ただ今回はかなり独自の解釈が入っていますのであしからず。

スナフキンとはまずムーミンに登場する旅するキャラクターであり、寡黙で、孤独と自由を愛するという設定である。彼は基本的に冬になる前に旅立ち、春が訪れるとともにムーミン谷にくるらしい。そして、毎回同じ服装で基本的に着飾らない。
彼は形あるものはいつか崩れなくなってしまうことを嫌い、なるべくものを持たないようにしているのである。自分の定住する家を持ってしまうとそこに愛着が生まれる、しかしそこを出なければいけない日がいつか訪れた時のものとの別れを嫌うのである。原作にあまり詳しくないのだが、スナフキンが来ている服は生まれた時から同じ服を直しなおし使っているという話もある。
彼のその考えが非常に現象学的であり、面白いと思う。
今回扱う現象学はメルロ=ポンティの『知覚の現象学』に書かれている内容として話を進めていく。
まず知覚というものは人間がいることで起きることである。もっともわかりやすい例としてポンティが挙げているのが「図」と「地」の関係性から、「白紙に描かれた黒い点」がある。黒い点は背景が存在することで、黒い点として認識される。しかもその点が知覚されるとき、背景である「地」の役割が非常に大きくなる。

とても小さな紙にある黒い点と逆に大きな紙にある点とでは同じ大きさの黒い点であっても違って見えてくる。さらに紙の中央にあるのか端にあるのかでも大きく変わってくる。
数値の上では直径5㎝の黒い点でしかなくても、周りの状況により、人はその黒い点の大きさを違ったように見てしまうのである。

またそれは音符や色にも言えることがある。一音ではただの音であるが、そこからまた違う音が続くことによってメロディができあがってくる。その際周りの音がほとんどが低ければ、その一音は高い音として認識されるが、逆に周りが高い音だと低い音として認識されるだろう。
色の場合はカラーチャートで同じ色であっても一枚の絵画全体が暗い色を使っていた時に明るく感じた部分でも、周りが明るい色であれば暗くなるといった具合である。

この現象は良く錯視の図なので見ることができるであろう。AとBは同じ色にもかかわらずBの方が暗く見えるといったものである。

『知覚の現象学』の中では、数値で表した世界を「客観的世界」としてよんでいる。それはつまり長さが何cmであるとか、ラの音で周波数がいくつの音であるというように、周りに関係なく数値化されたものである。そして現実世界においては、この「客観的世界」よりも感覚の方が人間には優先されると言う事も述べられている(感覚的世界)。

すなわち!人間はいくら数値で同じと言われていても、音を聞けば周りの状況から高い音と認識したり、大きな円であると判断したりすることの方に優先的であり、数値的情報(客観的世界の情報)よりも影響があるのである。

さて、そこからさらに派生してゆくと、この感覚的世界とは人の経験によってできあがってくることが言える。つまり様々な経験を多く積んだ人ほどより客観的世界としての見方ができると同時に、その人独自の感覚的世界を構築しているのである。わかりやすく言い換えると、まだ幼い子供はロウソクの炎が熱いという事を知らないため、手や顔を近づけてしまう。そこで一度でも火傷を負うと、次からは「赤くて明るいもの」=「熱い」として見ただけで認識する。鋭利な刃物も怪我をした後であれば似たようなものを見ても「痛そう」と視覚情報だけで別の感覚器官(聴覚、味覚、触覚、嗅覚)に影響がでるのである。それを感覚の共存または共感覚として述べられる。

だいぶ話が難しくなったところでスナフキンの話に戻ろうと思う。
スナフキンの服が生まれた時から同じという逸話(本当かは知りませんが)も客観的世界から見てしまえばただの布であり、それ以上のものでもない。しかし彼の考えの中にあるように新しいものを使えば古いものをいつかは捨てたり、壊したりしなければならず、それは彼の中で構築された感覚的世界の一部を捨てていくことである。
ある意味ものすごく保守的な考えでスナフキンは生きているようにも思えるが、おそらく彼はとても様々なものに愛着を抱いてしまう性格なのであろう。勝手な解釈ではあるが、スナフキンは幼少期に家族と何かしらの理由で別れてしまい、唯一の形見のようなものが今現在来ている服であると私は推察する。それもあり、絶えず孤独を好むというよりは実は愛着がわいてしまうと、それを客観的世界として再度とらえることができず、彼自身が非常に苦しむとても繊細な心の持ち主なのであろう。

このような観点からムーミンのスナフキンを解読してみると、とても彼が繊細で心やさしい人であるという事がわかるだろう。

若干無理やり感も否めないが、今回はこのような形で「現象学」とは客観的な数値で表せられる世界観ではなく、スナフキンのようにその対象となっている人物の「経験」によって構築された人独自の世界観を学問としているという形でまとめとしたい。

次回はまた時間ができた時に更新いたします。

2011年11月15日火曜日

第9回 インスタレーション・アート

さて第9回の更新。今回はインスタレーション・アートについてです。

この内容も自身の論文とかぶってきていますが、それとは違った解説をしていこうかと思っています。
さて、インスタレーション・アート。よくインスタレーション、インスタと略されています。以前建設会社で働いていたとき、「エレベーター前のインスタレーション君に任せるよ!材料はもう置いてあるから」と言われてウキウキしながら行ったら写真パネルが3,4枚置いてあり、配置をうまくレイアウトするだけのまさに「設置」作業で残念だったことがあります。

インスタレーションとはもともと「仮設、設置」といった意味であり、今現在芸術業界で使われている「インスタレーション」とはだいぶ意味が変わってきてしまっていると思います。

さてそれでは芸術に置けるインスタレーション・アート(以後インスタレーション)とはどのようなものを指すのでしょうか?先日インスタレーション作品が展示してある場所におばあさんが来ていたとき、係の人が「これはインスタレーション作品ですのでどうぞ中に入ってご覧ください」と言われた際、私に「インスタレーションってどういう意味ですか?」と聞かれたことがあった。
そのときに答えたことは

「絵画、彫刻だと作品を見て鑑賞するものですが、インスタレーションといった場合作品のなかに入ったり、もともとある空間とか鑑賞者とかも含めて作品とするものなんですよ」

と言うのが精一杯だった。

まぁあながち自分で言ったことは、そこまで間違っていないとは思う。

インスタレーションとは実のところ起源となるような出来事、評論が分かっていない。いくつかの海外の文献も調べてみたが

「インスタレーションは様々な派生から出来上がった分野のため、この本では起源を示すのではなく、現在のようなインスタレーションアートが形成されるまでの流れの一つを紹介する」(本当に某英語のオールオブインスタレーションとか謳っている本の序章にこのような文章が書かれていました)



「インスタレーションアートはそのほかのどれにも分類できない空間型アートであり、それは遡るとゴシック建築などのステンドグラスまで含んでいると言ってよい」

など正直無茶苦茶である。

ということでここでは私自身の独断解釈でインスタレーションを解説していこうと思う。

まずちまたではインスタレーションというと「あーあのよくわからないごちゃごちゃしたやつね」とか言われ重く扱ってもらえないことが多い。まぁたしかにそういうインスタレーションが多いのも事実です。実際割とテキトーに並べてそれっぽくしたものをインスタレーションとして提示している人を見たこともあります。

要は「逃げ」としてインスタレーションと言えてしまう恐ろしさがあるのです。(私はインスタレーション作家として誇りをもってやっているので堂々とインスタレーション作品ですと言います)
しかし最近ではその「逃げ」が余りにも氾濫したため、先程のように「あ~、インスタかぁ」と見下されてしまうようなことまで置き始めています。
つまり可能であるならばこれは「彫刻」「絵画」「建築」というようにはっきりとしたものに寄ったほうがもしかしたらしっかりと見てもらえる可能性はあります。

さて、ではインスタレーションとしてでしか成り立たないものとはどのような作品があるのでしょうか。
例えば立体にプロジェクターで映像を投影したとします。映像を作品とするならばスクリーンに投影すれば良く、立体を見せたいのであれば映像は要りません。ではこの場合の作品性はどこにあるのか。一概には言えないかもしれませんが、「映像が映っている立体」とそれを見ている「鑑賞者を含んだ空間」となるのではないでしょうか。つまりこの作品は「立体」と「映像」の二つしか一見素材としては使っていなくても、作品性は「立体」でもなく「映像」でもないその「映像が映った立体」がある「空間」ということになると思います。

難しいですね。私自身の作品で言いますと、終了制作で作った巨大なリングがあります。あれは木材で作っていますが、あれは木彫ではありません。ちなみにリングが作品として見せたいのであれば建物に絡ませる必要もないのです。という意味では作ったものはリングだけなのにもかかわらず、その周りの建物を含めた「空間」もを作品として取り込むことに意味があるのです。そこがまずひとつのインスタレーションの条件なのではないかと思います。

すなわち

作家が「作ったモノ」とそれ以外の要素である「空間(環境)」をも取り込んでしまう作品。
という意味です。





それ以外にインスタレーションの要素として挙げられるのが仮設ということです。基本的にインスタレーションは期間が終了すると解体してしまいます。先程のインスタレーションの条件を踏まえると、同じようなものを別の場所でやると取り込む空間が変わってくるため別のものとなってしまうはずです。(よほど似たような環境で設置し直せば別ですが)
期間が限定されているとどうなるか・・・・そこは現在博士論文に書いていますので、今はあまりかけません(乞うご期待!)
しかし話は振ってしまったので少しだけ。期間が限定されると最終的に解体したときには展示前の状況に戻っているはずです。しかしインスタレーションは作品そのもの以外の部分も巻き込んで作品としていると先ほど書いたように、もともとあった空間、環境は一度作品として成り立っていたのです。現状復帰をすると作品と言われる「モノ」はなくなりますが環境、空間はなくなるわけではないのです。つまりその空間、環境に対する見え方、捉え方というものが少なからず変化していると思います。その空間に対する見え方に限らずとも、似たような空間やモノが身の回りにあったとき、そのモノや空間は違ったように見えていると思います。

逆に言えば違ったように見えなければインスタレーションとしての作品は限りなく無意味に近づいてしまう危険性もふくんでいるのです。

そのうちインスタレーション作品の解説もしていこうかと思いますので、今回は

インスタレーション・アート=期間限定で、作品そのものだけでなく、それ以外の要素も巻き込んで作品としているもの

という視点を持ちながら作品鑑賞してもらうと少し面白いかもしれません。

それではまた次回!

2011年10月26日水曜日

第8回 トポフィリア

さて第8回はトポフィリア

これは少し美術とは離れますが論文に組み込んでいる内容でもあり(これから書くことは論文とは一部しか関係しません)すこし面白い概念なので紹介しようかと。

このトポフィリアとは造語であり、中国系アメリカ人であるイーフー・トゥアンという地理学者が提唱した概念です。このイーフー・トゥアンは「現象地理学者」としての第一人者であり、1960年代、世界の動きがなんでもかんでも科学的に答えを見つけようとしていた時代に反して、より人間的、哲学的な方法で地理学にアプローチをかけた学者です。

このトポフィリア。簡単に言ってしまうと「場所と人との感情的な結びつき」の一言で解決されてしまいます。がこれだけではわかりにくいのでもう少し説明を。

簡単に述べると、ある地域を研究している地理学者はおそらくその地域の歴史、文化、風土には非常に詳しく、それこそ論文として書き起こすこともできるであろう。しかし長年そこに住んでおり、地域の人殆どが知り合いというタクシーの運転手がそこに住んでいたとする。その運転手は地理学者が知っているような知識としての地域の特性は持っていないかもしれないが、経験としてその地域が体に染み付いている。そのた祭りやイベントといったものに感情的に結びついており、本当にその地域に根ざしているのは地理学者ではなくタクシーの運転手なのではないか。

というようなことが(だいぶ端折りましたが)書いてある。
これを人体にたとえるとわかりやすいかもしれない。医者は人間の体の内部、仕組み病気さまざまなことを知っている。じぶんが病気にかかったときは医者は体の内部のプロなので知識として非常によく理解しているだろう。ではおなかがどれくらい痛いのか、体のどの部分が変なのかといったところは医者よりも本人のほうが良く知っている(当たり前だが)。
なぜこのような例えを出したかというと、今の医者の例えの場合、個人と言う物は自分があってこそであり、医者が見ている自分というのは「人間としてのモデル」であって一切の内面性を含んでいないということである。

地理学においてももし地理学者の調べて知っている内容だけですべてOKとしてしまっては、見逃しているその地域の「本質」的な部分はどこに行ってしまったのか?それは無視をして良いものか?という疑問が生まれてくる。
なんとなくこれでなぜ地理学において感情的な結びつきが必要か唱えられたかがわかっていただけるとうれしいです。

このトポフィリアは『空間と経験』という本の内容に沿っているのだが、この本の中には少し面白い記述がある。
それは場所と空間の違いについてである。

空間とは感情的な結びつきがないのに対して、場所はそこに何かしらの結びつきが存在する

論文にも引用したのだが、たとえばモデルルームのようなところは「素敵な空間」とは言うものの「いい場所」とは言わない。それに対していざ自分の家となると「自分の場所」と言う。これはモデルルームが不特定多数の人に対して解放されており、あくまで全体を見せるだけのものでありそこに何かしらの感情的な結びつきを生むものではない。それに対して自分の部屋となるとそこには機能、経験、目的といったさまざまな要素が組み込まれ、感情的な結びつきが激しくなる。実際に身の回りで「空間」と「場所」について経験や目的があるものに対しては「場所」といわれていることが多いのです。
場所に対する感情的な結びつきが出来るのには特別時間が必要なわけではない。本の内容にもあるが、強さの方が重要なのである。
それはいつも通る何の変哲もない道は自分にとっては名前もない「空間」である。しかしそこで事故にあったとする。そうするとそこは急にいやな思い出ではあるが「思い出したくない場所」として自分の中に生まれてくる。
他にもとても楽しい出来事があったところ、驚きがあったところというのはその個人の中で場所に対して感情的な結びつきが生まれているであろう。この場所をトポフィリアとしての場所として私は捉えている。

作品や建築を作るときも同様、そこに作品(建築)が置かれることで、作品がある場所として何かしらの経験が生まれる。

トポフィリアとは非常に多義的ながら面白い概念である。
興味があるかたは「空間の経験」にあわせ「トポフィリア」を是非読んでみてください。(なんか広告みたいになってしまった)

それではまた次回!

2011年10月23日日曜日

第7回 芸術はわかりやすくあるべきか?

さて、またまた間は空きましたが第7回の更新

今回は少し趣向を変えて行きます。

「芸術はわかりやすくあるべきか?」について。
美大生なら一度はぶち当たる疑問のような気がします。私自身昔「一般の人に認められてこそいいのであって、無駄に敷居を高くするのはおかしい」と考えていた時期もありました。そのためコンセプト等を教科書のように必要以上に詳しく書いてみたり、説明してみたりした事もあります。

しかし、今、実際に調べたり、書いたりしているとそうでもないな、ということに気がつかされます。アインシュタインの言った言葉でとても面白く共感できる言葉がありました。

「物事を考える上で出来る限り簡潔にしていくのは良いことであり目指すべきところである。しかし簡略化、単純化をしてしまっては駄目である」

というものです。今の世の中殆どの物事が実は単純化されている。たとえば最近話題のスマートフォン。使い方はなんとなく指で触ればわかりますが、内部のプログラムやシステムといったところは非常に本来複雑でわからない部分が多いです。それでも成り立つのは私達がユーザーであるからです。ではこのスマートフォンを開発したappleふくめさまざまな企業の開発者も同じように単純に考えていたでしょうか?おそらく世の中の誰よりもスマートフォンの深い複雑な部分を研究してきたことだと思います。

さて今回の言いたかったこととして、よく「現代美術は良くわからない」(まさにこのブログの総タイトルのきっかけになった言葉です)といわれます。そして説明しても「難しくてわからない」となる場合が多いです。このブログもまだ難しいと感じる人もいるでしょう。同様に美術と深くかかわりがある哲学、思想といったものが絡んできた場合さらに難しくなると思います。

ここからは私個人の意見になるのですが、教育的美術はわかりやすくあるべきではあるが、わかりにくさも重要である。そしてそうでない美術はわかりにくくてよいが、わかりやすさも必要であるのではないかと思います。

たとえば幼少期に答えのある学問ばかりを教えられるのではなく、まったく答えが存在せず、自分の出したものが答えとなるようなものがあったら想像性はあがると思います。それを期待してさまざまなワークショップが立ち上がっているのも事実です。このワークショップでは子供達と何かを作るうえで何か描くにしてもそれが上手、下手というものではなく、作ったものが一つの答えになるものでその点では役に立つと思います。しかし作らせるものが難解なものであっては何をして良いのかわかりません。そういう意味である一定の目的のようなものはワークショップには大切であると思います。そしてこの答えがないというところでは考えさせるためにも多少のわかりにくさは必要なのではないかと。
たとえばあるテーマに沿って子供に家から何かを持ってきてもらうとする。たとえばそうですね、「赤い恐竜を作るので何か家にあるいらない赤いものを持ってきてください」と事前に連絡したとします。そのときに子供達は恐竜の質感と赤はどう結びつくか、これは恐竜のこの部分に使えるのではないかとさまざまな考えをします。しかし実際持ってきてみると他の人とはまったく違うものを持ってきていることも多いと思います。そこで他人と自分の考えの「違い」と言う物が理解できる可能性も生まれます。
このようなワークショップの場合、今述べたように「恐竜を作る」「赤いものには何があるか探す力を見出す」「他人と言う存在を少し理解させる」といったわかりやすい目的が存在します。これがわかりやすい部分である。それに対して「他人とは何か」という非常にわかりにくく答えが出しにくい哲学的な問題が含まれているのも確かです。
私はこのように何か<目的>がわかりやすいものを「教育主義的芸術」と考えています。
「教育主義的芸術」は何かしら教育のために使われる芸術とでも言い換えられるでしょう。

ではそうでない美術とは?
これこそが難しい問題です。学問としての美術はあまり聞いたことがありません。たとえば物理学、数学、文学、哲学はあっても美学はあまり親しみがないですね(昔そういう名前の雑誌はありましたが)
ただ面白いことに一つワークショップの記述とかぶるのは「他人とは違うところがある」ということで共通しているのではないかと思います。つまり「あるあるネタ」ではなく、その人独自の世界の見方を作品化していくことに殆どの作家は集中していると思います。さてしかしそこはわかり安くしてよいものなのでしょうか?教育主義的でない場合他人とは理解不可能なところが必ず存在するということをあらわすのに「結局こういうことでしょ」と簡略化されてしまっては作品を作る、解説する意味が生まれないのです。つまりどんどんと複雑化していくのは必然的にも思います。しかし、完全に孤立してしまっては表現につながらない。どこかきっかけとしてのわかりやすさも必要なのではないでしょうか?

これから私の大学では芸術祭がありますが、そこで展示をする方、単に一般の人にわかりやすくするのではなく、わかりやすくするのなら、それによって何を考えさせるか(わかりにくい部分や答えをどのように組み込むか、または問題を投げかけるか)を少し考えて見てはいかがでしょうか。

2011年9月22日木曜日

第6回 ユートピア論とモダニズム

久しぶりの更新になります。
今回はユートピア論とモダニズムに関しての個人的偏見も含んだ解説です。

まず「ユートピア」とは

理想郷、理想国家

という意味があります。このユートピア、人類の理想の環境を作り出し、普遍的かつ永久的に幸福を追求できるものとして言われることが多いと思います。しかし面白いことにこの永久的を目的としたものは必ず滅びるということが言われています。つまり事実上のまやかしに過ぎないのです。

ではそれはなぜか。理想郷を考えるとその時代の理想が反映されます。それは何世紀もまたがることで当時では考えられなかったような技術や文化がその間に生まれてきて、理想が理想で亡くなってくることが一つとしてあげられるでしょう。たとえば馬か徒歩しか移動手段のない時代に東京から大阪までを1日で行くことは夢のようなことであったでしょう。しかし今現在ではどうでしょう。東京大阪間を一日かけていくことはかなり大変です。新幹線や車で行けば一日で往復することも可能な状況で、20時間もかけて移動するのが理想でしょうか?

今現在の究極の理想移動手段はワープといった瞬時に移動することなのかもしれませんが、もし将来過去に戻ることのできるような技術が出てきたらどうでしょう?移動することが時間を逆行できるとしたらさらに理想がかわりますよね。

つまり今ある技術で考えている理想はいずれ理想ではなくなります。人類の繁栄という目的を考えると理想郷では繁栄、発展をしてしまうとその場所は理想ではなくなるといえるのではないでしょうか。


この考えに非常に近い美術や建築の考えが「モダニズム」ではないかと考えられます。モダニズムとは絵画、彫刻、建築、デザインさまざまな分野に扱われる言葉ですが、どの分野においても永久性、理想といったものを前提に考えられているといえるでしょう。たとえばモダニズム建築においてはその建築のプログラムが半永久的に持続すること、または永久的に変化して対応できる(というような感じ)で設計されています。逆に言えばそれが使われなくなって廃墟になってしまった時のことなどはあまり考えられていないでしょう。絵画、彫刻においてもモダニズムの流れでは永続性という言葉がキーワードになってきます。モダニズムの作品には鑑賞者がいらないというような言われ方を時々しますが、それはモダニズム以降のミニマリズムとの対比として言われているものではないかと考えられます。ミニマリズムの開設は以前行いましたが、ミニマルな作品(ただの箱とか)は鑑賞者が「これはどこが作品なのか?」ということを考えなければただの箱になってしまい、鑑賞者が鑑賞者としての気構えがあって初めて成立するものといえるでしょう。このミニマリズムはポストモダニズムの流れに含まれます。つまりモダニズムとは違う考えです。
このミニマリズムを考えると作品が単体で成立するという意味が分かるかもしれません。ミニマリズムは作家自身が自分の恣意的な要素(自分はこれがかっこいいと思うとか、感覚的な操作)を限りなく排除しているため、自分が作品を見に来ているという気構えをもった鑑賞者がいなければ成立しないのに対して、モダニズムはむしろかなり作家の恣意的な要素が含まれていると考えられます。明らかに人間の操作によって出来上がった形はたとえ途中に鑑賞者がいなくなっても自身の表現した形は残ります。実際のところ形あるものはいずれ崩れるというように形ということが既に永続性を持ち合わせていないとも言えるでしょう。


今回の結論としては
モダニズムの思想とユートピアは「永続性」という部分を望んでいるという点でつながっているのではないかということでした。

長らく間を空けましたが、また時々更新していきますね。

2011年5月28日土曜日

第5回

なんと今回は間あけずに第五回!!


さて今回は・・・・・・・パフォーマンス・アートです

パフォーマンスをアートと呼ぶのかどうかという人もいるかもしれません。しかし今回はパフォーマンスをアートの一環として捉えて話して行きます。

まずパフォーマンスというと美術と関係ない人は「サーカス」「パントマイム」「バレエ」「舞台」「ライブ」といったところを想像されるかと思います。しかし今回はパフォーマンスとパフォーマンス・アートと区切って考えて行きたいと思います。

決してサーカスはバレエといったものがパフォーマンスでないとかアーティスティックではないといった否定をするつもりはありません。今回対象としたいのは特に美しい動きや様相でもなく、サーカスのようにアクロバティックでもなく、舞台のように何か物語りを演じるわけでもないパフォーマンス表現をパフォーマンス・アートとします。

まずはわかりやすくいつものように作家を挙げて解説していきたいと思います。
今回取り上げる作家は

マリーナ・アブラモヴィッチ

です。
彼女はベネチアビエンナーレにも何回も作家として行っているとても有名な作家(パフォーマー)です。美術館で行ったパフォーマンスとして、机と椅子があり作家のマリーナ・アブラモヴィッチが座っています。向かい合うように椅子が用意されており、誰でもそこに座って構わないというもので。座って見ると机をはさんだ調度微妙な距離にアブラモヴィッチの顔があり、じーーーーーっと見つめられます。このいすに座ると自分と作家が向かい合ってただ見つめているだけの状態が他の鑑賞者によってまた見られます。マリーナ・アブラモヴィッチの作品の場合鑑賞者にパフォーマンスの終わりを非常によくゆだねる傾向があります。これはパフォーマンスと言う物を完結したストーリーとして捉えているのではなく、鑑賞者自身の人間的な関係性の物語として扱っているためなのです。

パフォーマンスの論文をかいたエリカ・フィッシャー・リヒテはこのように鑑賞者がパフォーマーとなり、またそれが他の鑑賞者に対するパフォーマンスとなりさらにパフォーマー自身にその結果が返ってきて、それが鑑賞者に伝わり・・・・・・・という循環作用を「役割交換」の述べています。

この「役割交換」、パフォーマンス以外に可能なのでしょうか。彫刻や絵画といった面であいまいな部分があるように美術の分野において領域と言う物は非常にあいまいなもの(彫刻に色を塗った場合絵画的要素も含むし、絵画を立体に起こすこともあるように)なのですが、役割交換が出来る美術は今のところパフォーマンス・アートだけなのではないでしょうか。

ここからはかなりまどろっこしい書き方になりますが、皆さんも自分の考えを持ちながら読んでみてください。いろいろと読んでいくたびに納得させて裏切っていきます。美術を考える面白さがわかるかもしれません

さてパフォーマンス・アートには必ずしも役割交換が存在しているわけではありません。あくまで今回述べているのは役割交換を用いた作品はパフォーマンス・アートとなるということです。役割交換がないものとしてはイブ・クラインの裸の女性によるペインティングや土方巽の始めた舞踏などがあると思いますが、ここでまた共通項が見えてきます。それは当たり前に思うかもしれませんが「動き」が作品となっていることです。
 なぜならパフォーマンス・アートは写真としては成立しない。それはあくまで結果であり、パフォーマンスの写真は他の立体、平面作品を人づてで話に聞くようなものでまったくその形や詳細がわからない。ただの結果である。ということは動きがなければパフォーマンスとならない。





とおもいますか?
それではジョン・ケージの「4分33秒」
これはパフォーマンスではないのでしょうか。
この作品はピアニストが4分33秒ただピアノの前に座ってまったく動かないまま過ごし、終わるものです。ここではパフォーマーである演奏家は「4分33秒」の作品が始まった瞬間から終わる瞬間まで微動だにしません。音楽というものを演奏を聴くものとおもっている聴衆に実は演奏中に本来耳に入っている(でも脳が勝手に遮断している)空調や聴衆の出す音と言う物だけに集中させる列記としたパフォーマンスです。

どうでしょう。なかなか一つの分野だけでも意味がわからなくなってきたと思います。

とりあえず私の今いえる結論としては「役割交換」又は「動き」の両方ないし片方を持ち合わせているものがパフォーマンスアートとして成り立っているということです。

今回はちょっとまだ調べてない部分もあるのでいったん終わりにします。そのうちまたパフォーマンス・アートは深く掘り下げて解説したいと思います。(いつか・・・)

それでは第6回 乞うご期待

2011年5月17日火曜日

第4回 ミニマリズムともの派

えー間が開きましたが第4回行こうと思います。

相変わらず前回の予告無視で。

今回はミニマリズムともの派です。

美術館に行くとただ箱が置いてあるだけ、石があるだけ、木が一本たっているだけ、といった「これはどこら辺がアートなのだろうか?」と誰しもが最初に行き当たる立体がありますね。そこを今回は解説していこうとおもいます。

まず。ミニマリズムともの派はまったく違います。あまりにも違います。にもかかわらず作品がすごくシンプルなため西洋=ミニマリズム、東洋=もの派と勝手に似たようなものとしてとらえている人が多いのです。もう一度言います。ミニマリズムともの派はまったく違います。

さてミニマリズムやもの派の解説からしていきます。

ミニマリズムまたはミニマルアートとは形態や色といった要素を最小限まで突き詰めようとしています。
一言で言うとこれで終わりです。



でももうちょっと詳しく
あるものを見せるにあたりいろいろな要素が入るのを防いでいるのです。つまりもし「四角」という形を見せるのにそれが木彫でつくってしまうと、作家が四角くした行為であったり材質といった要素が入ってきてしまいます。作家や材質は要素なんです。つまりもし丸太を四角く彫ってみたとき、作家が違えば微妙に形も変わってくるでしょうし、材質が変わればそれでまた変わってしまいます。よってミニマリズムの作品は図面だけ書いて工場に発注したものや作家本人が作ったものではないもの、レディーメイドといわれる製品を並べたものなどいろいろあります。
今回はドナルド・ジャッドという作家をミニマリズムの例に挙げてみます。
彼は箱のようなものを等間隔で並べただけの作品などが有名です。彼の箱は展示するギャラリーに本当に箱の厚み分の隙間を開けて並べているだけです。それは箱と箱の間にある空間、その空間が並べてある箱とまったく同じ体積分になっており、とにかく作品は箱だけでなくその間にある空間も含めて作品と言っています。それではこの箱がもし作家の独自的な感覚で並べられていたらどうでしょう?まったくただの箱になります。
つまりミニマリズムの作品の難解さは一歩間違えればただの箱になってしまうように、非常に形をいじるのも、色いしても最小限まで削られてしまっているので美術作品を見慣れない人は本当にどのあたりが美術なのかと思ってしまうでしょう。長くなってきたのでまとめるとミニマリズムは当時作品として成り立つ「最小限」を目指した作品のつくり方の流行として思っておいてください。


そして今度はもの派です。
もの派はたまーーーにいますがmono派とつまり単一派?とかってに勘違いしているという人がいるうわさを以前耳にしましたが・・・・・・・・そんなわけありません。

え、まさかもの派のものって日本語の「物」?
そうです。日本で誕生した美術の流れなんです。
ミニマリズムと似ているところをあげるとあまり手を加えないところでしょうか。石をそのまま美術館に持ってきたり、土を掘って積み上げただけだったり。作品だけ見ると混乱する人も多いかもしれません。
しかしもの派は外国、特に西洋にはありえない思想が元になっているのです。東洋、特に日本は自然崇拝てきな文化がありますね。つまり富士山であったり滝といったもので、日本庭園なんか見ても、西洋の庭のようにきっちりと区分けするのではなく、曲がった川に、コケが生えた石を置くなど、小さなものに大自然を写しこむような文化があるのは分かると思います。
平たく言うとこの部分を作品化しようとしているのです。石を美術館に持ってきて見せようとしているのは石そのものなんです。だからモノ派といわれます。
じゃあ石見るだけならどこでもいいじゃんというあなた。まぁそうです。でも石・・・・じっくりみますか?
モノ派の石の場合いくつか意味があり、ひとつは先述の石そのものを見る。これは石というものは自然によって彫刻された形であり、それが今ここにある「形」としてみてみようという試み。人がつくった形は図面でどうにかなるかもしれないが、自然形態そのものによって偶然的に出来上がる形を見せるということ。もうひとつはそこから自然のすごさであったり自然そのものへの意識を持っていくということ。その1と被るけど、石をそのかたちまで持っていった自然というもののすごさであったり、石を見てそこから大自然を連想したりとちょっと俳句的な要素を兼ね備えているものなんです。
松尾芭蕉の俳句に「五月雨を、あつめてはやし、最上川」とありますが五月雨つまり、ただの大雨から最上川の豪流を連想させるということを日本人は自然とつなげてきているのです。この俳句を聞いた人は最上川にいったことがなくても近くの川が大雨で氾濫したときからさらに大きなものを想像すると思います。
というように、モノ派はミニマリズムと大きく違うのは作家が手を加えないのは自然に対しての想像の広がりを期待しているからという点でしょうか。
ミニマリズムはむしろ逆で自然とか作家の性格とかをその作品から読み取らせず単純に形や色といった部分だけを見せようとしているため、作品は手を加えない点で似ていても間逆の期待を鑑賞者に対して投げかけているのです。

作品の写真だけ見てミニマリズムなのかモノ派なのか判別つきにくいものも多いため、よくごっちゃになっているため西洋版、日本版くらいで分けてしまう人も多く見かけますが、あくまで逆。ミニマリズムは連想させない。ただある体積であったり数値であったりとものすごく物理的な部分のみ「しかみせない」ことに重点を置いており、モノ派はそのものから自然というものや物自体が持っている力強さや弱さ、またそのもの同士の比較といった見た目以上の部分までを連想させていろいろな見落としていた部分を「みせる」というのが重要ということです。

すでにミニマリズムもポストミニマリズム時代もおわり、モノ派もポストモノ派が終わっているのでいまさらってところもありますが、美術館でミニマリズムやモノ派の作品を見たときちょっと思い出してみてください。

それでは第5回は・・・・・もう予告しません。どうせ予告守らないし。気が向いたときまた書きます!ではでは