2011年10月23日日曜日

第7回 芸術はわかりやすくあるべきか?

さて、またまた間は空きましたが第7回の更新

今回は少し趣向を変えて行きます。

「芸術はわかりやすくあるべきか?」について。
美大生なら一度はぶち当たる疑問のような気がします。私自身昔「一般の人に認められてこそいいのであって、無駄に敷居を高くするのはおかしい」と考えていた時期もありました。そのためコンセプト等を教科書のように必要以上に詳しく書いてみたり、説明してみたりした事もあります。

しかし、今、実際に調べたり、書いたりしているとそうでもないな、ということに気がつかされます。アインシュタインの言った言葉でとても面白く共感できる言葉がありました。

「物事を考える上で出来る限り簡潔にしていくのは良いことであり目指すべきところである。しかし簡略化、単純化をしてしまっては駄目である」

というものです。今の世の中殆どの物事が実は単純化されている。たとえば最近話題のスマートフォン。使い方はなんとなく指で触ればわかりますが、内部のプログラムやシステムといったところは非常に本来複雑でわからない部分が多いです。それでも成り立つのは私達がユーザーであるからです。ではこのスマートフォンを開発したappleふくめさまざまな企業の開発者も同じように単純に考えていたでしょうか?おそらく世の中の誰よりもスマートフォンの深い複雑な部分を研究してきたことだと思います。

さて今回の言いたかったこととして、よく「現代美術は良くわからない」(まさにこのブログの総タイトルのきっかけになった言葉です)といわれます。そして説明しても「難しくてわからない」となる場合が多いです。このブログもまだ難しいと感じる人もいるでしょう。同様に美術と深くかかわりがある哲学、思想といったものが絡んできた場合さらに難しくなると思います。

ここからは私個人の意見になるのですが、教育的美術はわかりやすくあるべきではあるが、わかりにくさも重要である。そしてそうでない美術はわかりにくくてよいが、わかりやすさも必要であるのではないかと思います。

たとえば幼少期に答えのある学問ばかりを教えられるのではなく、まったく答えが存在せず、自分の出したものが答えとなるようなものがあったら想像性はあがると思います。それを期待してさまざまなワークショップが立ち上がっているのも事実です。このワークショップでは子供達と何かを作るうえで何か描くにしてもそれが上手、下手というものではなく、作ったものが一つの答えになるものでその点では役に立つと思います。しかし作らせるものが難解なものであっては何をして良いのかわかりません。そういう意味である一定の目的のようなものはワークショップには大切であると思います。そしてこの答えがないというところでは考えさせるためにも多少のわかりにくさは必要なのではないかと。
たとえばあるテーマに沿って子供に家から何かを持ってきてもらうとする。たとえばそうですね、「赤い恐竜を作るので何か家にあるいらない赤いものを持ってきてください」と事前に連絡したとします。そのときに子供達は恐竜の質感と赤はどう結びつくか、これは恐竜のこの部分に使えるのではないかとさまざまな考えをします。しかし実際持ってきてみると他の人とはまったく違うものを持ってきていることも多いと思います。そこで他人と自分の考えの「違い」と言う物が理解できる可能性も生まれます。
このようなワークショップの場合、今述べたように「恐竜を作る」「赤いものには何があるか探す力を見出す」「他人と言う存在を少し理解させる」といったわかりやすい目的が存在します。これがわかりやすい部分である。それに対して「他人とは何か」という非常にわかりにくく答えが出しにくい哲学的な問題が含まれているのも確かです。
私はこのように何か<目的>がわかりやすいものを「教育主義的芸術」と考えています。
「教育主義的芸術」は何かしら教育のために使われる芸術とでも言い換えられるでしょう。

ではそうでない美術とは?
これこそが難しい問題です。学問としての美術はあまり聞いたことがありません。たとえば物理学、数学、文学、哲学はあっても美学はあまり親しみがないですね(昔そういう名前の雑誌はありましたが)
ただ面白いことに一つワークショップの記述とかぶるのは「他人とは違うところがある」ということで共通しているのではないかと思います。つまり「あるあるネタ」ではなく、その人独自の世界の見方を作品化していくことに殆どの作家は集中していると思います。さてしかしそこはわかり安くしてよいものなのでしょうか?教育主義的でない場合他人とは理解不可能なところが必ず存在するということをあらわすのに「結局こういうことでしょ」と簡略化されてしまっては作品を作る、解説する意味が生まれないのです。つまりどんどんと複雑化していくのは必然的にも思います。しかし、完全に孤立してしまっては表現につながらない。どこかきっかけとしてのわかりやすさも必要なのではないでしょうか?

これから私の大学では芸術祭がありますが、そこで展示をする方、単に一般の人にわかりやすくするのではなく、わかりやすくするのなら、それによって何を考えさせるか(わかりにくい部分や答えをどのように組み込むか、または問題を投げかけるか)を少し考えて見てはいかがでしょうか。

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