2011年4月25日月曜日

第三回

第三回テーマ

知らなければアートは見て、感想を言ってはいけないのか?


これは賛否両論でしょうが、私は見るのも自由、批評するのも自由だからこそのアートだと思います。

今までに凄く多くの批判されまくった作品があります。それはいまではかなり有名になっていることも。

今森美術館でフレンチ・ウィンドウという展覧会の中にマルセル・デュシャンという人の作品がありますが、これほどわかりやすい批判を受けた作家も珍しいでしょう。

先に断っておきますが、批判がある作品はいい作品というものではありません。

デュシャンの有名な作品の中に「泉」があります。
彼はレディーメイド(既製)という美術の手法(とされていますが)を多く作品化しています。

わかりやすく言うと自分で粘土やら絵の具やらを使って形を作り出すのではなく、ただそこら辺に売られている既に出来上がったいわば「製品」を作品に使用することです。

これは後の「フォーマリズム」という美術運動につながっていくのですが、今回は置いときます。

このレディーメイドの手法は特に産業革命以降の大量消費社会に対してのメッセージであるものがかーーなり多く、捨てられたものなどを使った作品もかなりこの時期から増えます。

「泉」の作品に関してはただの便器です。それにサインが入ったから「作品」になる。とざっくり言うとこういうことなのですが、そうなると「なんでも作品になってしまうじゃないか」と多くの批判がきます。

そうなのです。知らない人ですら「何でも作品になっては困る」と考えて作品として認めないというのです。
それがデュシャンの狙いでもあったんです。

つまり今回のテーマ「知らないとアートを見たり批判してはいけないのか」ということに対して逆にその視点もアートには重要だということです。
何か文章が良くわからなくなってきましたね。

それでは例をもう少し進めてわかりやすく。

すこしその現状を書くと、実は「泉」の作品の場合デュシャン自身のサインではないのです。それは便器を作っている会社の社長(取締役だったかな?)のサインであり、その人の名前で公募展に便器を出品しています。その公募展の審査員の一人にデュシャンがいたそうです。そして公募展にその便器を落選させるのです。

自分で身分を偽って自分のコンペに出してさらに落選。
まだまだ意味がわからないですね

ではこれで

デュシャンは大量に色々なものが生産される中で、今まで以上に作品だけでなく物自体の価値が下がっていくことに対してのアンチテーゼを唱えようとしていたと考えられないでしょうか。
つまり今までは一つ一つが工芸的に手で作られていたものが機会によって大量に作られることで便器一つをとっても安くなり物としての価値が落ちる。それは美術作品も同様、新しい技術により古くから伝わるものはかんたんに作れるようになってしまい価値が落ちる可能性もあります。
そこで便器の会社の社長の名前を入れた便器を作品として出して、話題にすることでこの部分をあらわそうとしたのではないでしょうか。

つまり話題になることがこの場合表現につながるのです。話題にならなければそれはデュシャン自身の表現につながらず作品となれなかったのです。では誰が作品にしたのでしょう?

それはアートの文脈を知らない人の意見と極一部の文脈を理解している批評家ではないでしょうか。

世の中の大半の人はこれを作品といわれたとき「ただの便器だ」「汚いものや奇抜なことさえすればアートなのか」といったように作品として認めないような批評をします。
それに対して「大量に消費されてしまう商品にも形があり、それを全部ではなくあえてその一つの便器に社長の名前を入れる、これは版画の通し番号とサインのように作品としても見れる」などという批評家がぶつかったのです。

そのうちにだんだんと話題に上れば上るほどデュシャンの「泉」という作品は大量消費社会という言葉に近づいていき、気が付かないうちに消費社会に対する反論しているのです。

つまり「話題」が重要なのです。
学者や批評家がいくら議論に上げてもそれは学者間どうしでの有名な出来事でしかなく、一般レベルでの出来事にはなりえないため、表現という言葉に?が付いてしまいます。
一般からの大反対に対して一部の批評家が擁護する、このような状況になればなるほど皆の意識に問題意識が刷り込まれる。


知らなくても思ったとおりにアートを鑑賞し、批判していてもそれは決して間違いではないのです。逆にそれを利用している作家もいるんです。アートを見るのに知識が無いといけないような書き方を以前していますが、そうでなくても大丈夫なんです。私が前回と今回あわせて述べたいのは「よくわからん」と見向きもしないのは鑑賞ではなく、とりあえず「こいつは何を考えてこれを作ったのかわからん」と言えることがアートを楽しむ一つなのではないでしょうかということです。


それでは次回は少しまじめに批評の世界をかこうかと思います。(変わるかも)

2011年4月8日金曜日

第二回

では早速ですが第二回

ピカソのすごさってなんだ?

なんかわかりやすい個人的な美術解釈のようになりそうですが、まぁ気にせず。そのうちコアな話題にも触れていきます。


前回、中学、高校美術を話しにあげたので今回は誰でも、本当に美術と言う言葉を聞いたら真っ先にあげる作家ベスト3に入るピカソ(あとはゴッホとかかなぁ)に関して知っている限り書いていこうかと。

私の高校時代の教科書にもピカソのゲルニカが載っていました。

小学校の頃、「ピカソの絵は誰でも描けそう、何がすごいのかわからない」と私は思っていました。恥ずかしい話ですが正直大学に入っても何かすごいって事くらいの認識でしかなく、特に深く調べようとは思ってもなかったのです。


みんながすごいというし、色んな教科書本を見ても必ずどこかに載ってるからすごい。


それぐらいの認識でした。結構みなさんそんな感じじゃないですか?(よく知っている方がいたらすいません)

ではピカソのすごさから


本名:パブロ、ディエーゴ、ホセ、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ・ラ・サンティシマ・トリニダード
(ウィキペディアより(博士としてあるまじき出展所ですが・・・笑))

すごい(笑) 苗字、名前、ミドルネーム、あとは何だろう?
以前外国生まれ育ちの日本人が日本に定住するときにミドルネームを登録できないため、「鈴木 クリス裕太」にするか「鈴木クリス 裕太」にするか選べたという話を聞きましたがこの場合は・・・

くだらないことは置いときましょう。

ではピカソは本当にすごい作家なのでしょうか?
たしかに絵画は高額で取引されている。少しかじったことがある人なら知っているでしょうが、ピカソの14~20歳の頃の絵などを見ると、すごく写実的で一般的に「綺麗」と言える絵の技量を持っていることがわかります。

先に断りますがここからは、ウィキペディアを先ほど引用しましたが、調べれば簡単なことより個人的な見解もふくめていきます。

まずピカソの作品数は約20万点ある(版画が殆どですが、油絵だけでも1万点以上あるそうです)。
ここで版画は沢山刷れるのでおいといたとしても、1万~2万点に及ぶ一点ものの作品数に着目します。
1日1作品→1年365作品→30年で約1万作品

挿絵なども含めると1日1作品では収まりませんね。実際ピカソは若くから作品を発表し、長生きしているので多いのですが、異常な多さです。

さてそのなかであなたの知っている作品は何点ありますか?

「アビニョンの娘たち」「泣く女」「ゲルニカ」・・・・・・

まぁタイトルまですぐに思い出せるのは数点です。私自身、箱根彫刻の森や海外の美術館で今までに約500~600作品は見てきましたが、総数の0.3%しか見ていないのです。

はて、99%は?

そうです。ピカソはもっとも凄い作家の一人でもありますが、もっとも駄作を作った作家としても実は有名です。

下手な鉄砲数打ちゃあたるんです。
でも打った数が凄すぎて誰も真似できないくらいなんです。
日本野球機構で調べると清原和博選手、全盛期HR争いが凄かったですね。でも三振数では至上最多の1995回だそうです。でもみんなが注目するのはHR。すごい選手だったので三振してバットでも折れればそのときのボールにですら何か価値が付いてしまう。似たようなことがピカソにもおきています。


その数打った、打ちまくった作品の考えの中に後にキュビズムと呼ばれる手法が存在します。

これが「下手そうなのに評価の高い絵」なのです。

絵がうまく、色々と新しい描き方を考えているうちに「全てを同じ画面に描く」という手法の一つがキュビズムです。
実はいきなりこの考えがあったかどうかは定かではないですが、アフリカの民族彫刻(プリミティビズムアートといわれますが)に興味を持ったピカソがその彫刻を元に絵画化していったものが始まりと言われています。


まぁこのあたりは調べてみてください。ピカソなら沢山の情報が出てきますし。

とりあえず今回言いたかったことは、ピカソはものすごく有名だけれども、有名になるべくしてなった、そりゃこれだけの作品数を発表してますから。ということなんです。


私自身よく感じるのはアートを説明する上でピカソほど役立つ作家はいないと同時に、ピカソほど説明に使いづらい作家はいないとおもいます。


なぜならみんな知っている作家なのに知っている作品はほんのごくわずかなのですから。

今回はこんなところで。たいして深い話ではありませんが、のちのちキュビズムも取り上げたいと思います。

では第三回乞うご期待!

2011年4月6日水曜日

あなたに私の何がわかるのか?①

タイトルは少々暴力的ですが、決してグチを広める物ではありません。美術大学の博士課程なので色々と論文のための文章を考えていく中で、「論文にはならないかもしれないけど」といった内容を連載していこうかと思ってます。

第一回

現代美術や現代アートは良くわからないもの、何でもいいから奇抜で変なものが現代アートなんでしょ?



皆さんこのような事を言った人、言われた人、多いのではないでしょうか?



 美術館に拾ってきただけの石が並べられていたり、鶏肉に蛍光灯が刺さっていたりと確かにいきなりこれを見た人は変なものとしか見ないでそれ以上突っ込んで考えようとしませんね。

じゃあそこでしっかり突っ込んで考えたらわかるのか?

と聞かれてもYESともNOともいえません。

 でも現代アート(現代アートと現代美術との違いの考え方に関してはまたいつか)を意味不明なものとしてでしか考えず、だから誰でも出来んじゃないの?と思っている方がいたとしたらそれは断じてNOといえます。

評論家の椹木さんの本にも似たような言葉がありますが、美術のルールを知らないまま「わからない、ただ変なの」と決め付けるのは私自身反対です。


ここで皆さんにお聞きします。


サッカーやバスケットボールなどの「球技」をご存知でしょうか?


私が言いたいことはこのような球技にもルールはありますが、それぞれ違います。
ちょっと考えて見てください

今のあなたは球技のルールを何一つまったく知らない状態です。そこであなたはいきなり「球技」をするからとフィールドに立たされます。

はい。ボールを手で触っていいのか、どこに向かえばいいのかもわかりません。半分より向こうフィールドは入ってはいけない領域かもしれません。

突然笛がなり人々はボールをけりだします。手で触った瞬間ゲームをとめられます。なるほど手で触ってはいけないとわかった。ボールをパスしてとにかく前へ行けばよいとわかった矢先に「オフサイド」をとられます。もし本当にサッカーを知らない人がいきなりフィールドに立ったらこの時点で

「こんなボール遊び意味がわからない!」

と投げ出しそうです。極め付けに手で触ってはいけないと言われたのに

「ゴール前にいる人だけは手で触ってもいいんだよ」

なんていわれたらサッカーという物が嫌いになりそうです。

そして球技とだけ聞かされて別のコートに突然たたされます。

球技=蹴る物と認識しているあなたは真っ先にボールを蹴ろうとしますが、ゴールがありません。今度はみんな手を使っている。
「さっきは球技は足しか使うなといわれたのに今度は手じゃないか!」と思います。当然持ったまま歩くとルール違反と告げられて、「球技ってなんなんだ!意味がわからん!」となってしまいますよね?

実は現代アート界では同じようなことが起こっているんではないかといえます。
本当は「球技」にバスケやサッカー、テニスなど色々あってそれぞれのルールが違うように現代アートの中にも色んな、それこそ分類できないくらいの考えがあるんです。サッカーやバスケ以上に複雑(全てがそうでもないのですが…)なルールなのに中学から高校までやった「美術」に出てくるピカソ、モネなどの一部の分野=美術、アートとして考える、つまり

現代アート=球技

ではなく

現代アート=サッカー

のように固定して考えてしまっているのではないでしょうか?
結果 現代アートは何をやってるかわからない=良くわからないもの っと勝手に決め付けているのが殆どだと思います。

例をあげますとリチャード=ロングという作家は美術館じゃない場所に、それこそそこら辺の空き地や山の中に石を綺麗に並べました。

アートです



意味がわかりませんね。
ではこれではどうでしょう?

あなたは生きているということをどうやってあらわすかということを考えたとき、何かをしないとそれを表現できませんよね?

それと同じく自分が地球のどこかへ行ったということをあらわすのは写真で十分でしょうか?

今は合成技術もすごく発達してますからそれが証拠になるでしょうか?

では旅先で自然に出来たとは思えないような形に石を綺麗に円形に並べます。それは自分しか知りません。後に友人にどこどこにこういう石を並べたと伝えます。友人がそれを見に行った瞬間、その友人は私がそこに来たということを認識できます。

つまりロングの場合「石を並べた=そこに自分は存在していたんだ」という図式が成り立つのです。それはどんなにうまく絵を描いても写真をうつしただけかもしれないなかで「自身の存在、行い」という物をとてもわかりやすく表現できているとは思えませんか?

だからアートといわれるのです。石自体には何の価値もありません。彼がそこに存在したということを他人にあらわす不動の行いをしたこと、彼がここにいたということを表現できたことに意味がある作品です。

例が長くなりましたが、これはリチャード=ロングという作家の
「自分の存在を表現」するというルールと考えてください。数ある球技の中のサッカーというルールを覚えるのと同じように、これまた途方もない数あるアートの中のルールの「自分の存在を表現」を覚えました。

これを元にリチャード=ロング、アンディー=ゴールドワージ、デイビッド=ナッシュといった作家をgoogleで検索してみてください。必ずしもこの作家達がルールに当てはまるわけでもありませんが、少~しは理解できるようになっていませんか?

次回は別の作家を例にまた他のルールをお伝えして行こうかと思います(変わるかも)

はじめまして

以前のBLOGから独立させて、こちらでは私が気になること、考えていること、論文になかなかまとまらないことを書いて行こうと思っています。現代アートと言うものを考えている人の考えと言うものを少しでも理解していただけたらと思います。