2011年4月6日水曜日

あなたに私の何がわかるのか?①

タイトルは少々暴力的ですが、決してグチを広める物ではありません。美術大学の博士課程なので色々と論文のための文章を考えていく中で、「論文にはならないかもしれないけど」といった内容を連載していこうかと思ってます。

第一回

現代美術や現代アートは良くわからないもの、何でもいいから奇抜で変なものが現代アートなんでしょ?



皆さんこのような事を言った人、言われた人、多いのではないでしょうか?



 美術館に拾ってきただけの石が並べられていたり、鶏肉に蛍光灯が刺さっていたりと確かにいきなりこれを見た人は変なものとしか見ないでそれ以上突っ込んで考えようとしませんね。

じゃあそこでしっかり突っ込んで考えたらわかるのか?

と聞かれてもYESともNOともいえません。

 でも現代アート(現代アートと現代美術との違いの考え方に関してはまたいつか)を意味不明なものとしてでしか考えず、だから誰でも出来んじゃないの?と思っている方がいたとしたらそれは断じてNOといえます。

評論家の椹木さんの本にも似たような言葉がありますが、美術のルールを知らないまま「わからない、ただ変なの」と決め付けるのは私自身反対です。


ここで皆さんにお聞きします。


サッカーやバスケットボールなどの「球技」をご存知でしょうか?


私が言いたいことはこのような球技にもルールはありますが、それぞれ違います。
ちょっと考えて見てください

今のあなたは球技のルールを何一つまったく知らない状態です。そこであなたはいきなり「球技」をするからとフィールドに立たされます。

はい。ボールを手で触っていいのか、どこに向かえばいいのかもわかりません。半分より向こうフィールドは入ってはいけない領域かもしれません。

突然笛がなり人々はボールをけりだします。手で触った瞬間ゲームをとめられます。なるほど手で触ってはいけないとわかった。ボールをパスしてとにかく前へ行けばよいとわかった矢先に「オフサイド」をとられます。もし本当にサッカーを知らない人がいきなりフィールドに立ったらこの時点で

「こんなボール遊び意味がわからない!」

と投げ出しそうです。極め付けに手で触ってはいけないと言われたのに

「ゴール前にいる人だけは手で触ってもいいんだよ」

なんていわれたらサッカーという物が嫌いになりそうです。

そして球技とだけ聞かされて別のコートに突然たたされます。

球技=蹴る物と認識しているあなたは真っ先にボールを蹴ろうとしますが、ゴールがありません。今度はみんな手を使っている。
「さっきは球技は足しか使うなといわれたのに今度は手じゃないか!」と思います。当然持ったまま歩くとルール違反と告げられて、「球技ってなんなんだ!意味がわからん!」となってしまいますよね?

実は現代アート界では同じようなことが起こっているんではないかといえます。
本当は「球技」にバスケやサッカー、テニスなど色々あってそれぞれのルールが違うように現代アートの中にも色んな、それこそ分類できないくらいの考えがあるんです。サッカーやバスケ以上に複雑(全てがそうでもないのですが…)なルールなのに中学から高校までやった「美術」に出てくるピカソ、モネなどの一部の分野=美術、アートとして考える、つまり

現代アート=球技

ではなく

現代アート=サッカー

のように固定して考えてしまっているのではないでしょうか?
結果 現代アートは何をやってるかわからない=良くわからないもの っと勝手に決め付けているのが殆どだと思います。

例をあげますとリチャード=ロングという作家は美術館じゃない場所に、それこそそこら辺の空き地や山の中に石を綺麗に並べました。

アートです



意味がわかりませんね。
ではこれではどうでしょう?

あなたは生きているということをどうやってあらわすかということを考えたとき、何かをしないとそれを表現できませんよね?

それと同じく自分が地球のどこかへ行ったということをあらわすのは写真で十分でしょうか?

今は合成技術もすごく発達してますからそれが証拠になるでしょうか?

では旅先で自然に出来たとは思えないような形に石を綺麗に円形に並べます。それは自分しか知りません。後に友人にどこどこにこういう石を並べたと伝えます。友人がそれを見に行った瞬間、その友人は私がそこに来たということを認識できます。

つまりロングの場合「石を並べた=そこに自分は存在していたんだ」という図式が成り立つのです。それはどんなにうまく絵を描いても写真をうつしただけかもしれないなかで「自身の存在、行い」という物をとてもわかりやすく表現できているとは思えませんか?

だからアートといわれるのです。石自体には何の価値もありません。彼がそこに存在したということを他人にあらわす不動の行いをしたこと、彼がここにいたということを表現できたことに意味がある作品です。

例が長くなりましたが、これはリチャード=ロングという作家の
「自分の存在を表現」するというルールと考えてください。数ある球技の中のサッカーというルールを覚えるのと同じように、これまた途方もない数あるアートの中のルールの「自分の存在を表現」を覚えました。

これを元にリチャード=ロング、アンディー=ゴールドワージ、デイビッド=ナッシュといった作家をgoogleで検索してみてください。必ずしもこの作家達がルールに当てはまるわけでもありませんが、少~しは理解できるようになっていませんか?

次回は別の作家を例にまた他のルールをお伝えして行こうかと思います(変わるかも)

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