2011年10月26日水曜日

第8回 トポフィリア

さて第8回はトポフィリア

これは少し美術とは離れますが論文に組み込んでいる内容でもあり(これから書くことは論文とは一部しか関係しません)すこし面白い概念なので紹介しようかと。

このトポフィリアとは造語であり、中国系アメリカ人であるイーフー・トゥアンという地理学者が提唱した概念です。このイーフー・トゥアンは「現象地理学者」としての第一人者であり、1960年代、世界の動きがなんでもかんでも科学的に答えを見つけようとしていた時代に反して、より人間的、哲学的な方法で地理学にアプローチをかけた学者です。

このトポフィリア。簡単に言ってしまうと「場所と人との感情的な結びつき」の一言で解決されてしまいます。がこれだけではわかりにくいのでもう少し説明を。

簡単に述べると、ある地域を研究している地理学者はおそらくその地域の歴史、文化、風土には非常に詳しく、それこそ論文として書き起こすこともできるであろう。しかし長年そこに住んでおり、地域の人殆どが知り合いというタクシーの運転手がそこに住んでいたとする。その運転手は地理学者が知っているような知識としての地域の特性は持っていないかもしれないが、経験としてその地域が体に染み付いている。そのた祭りやイベントといったものに感情的に結びついており、本当にその地域に根ざしているのは地理学者ではなくタクシーの運転手なのではないか。

というようなことが(だいぶ端折りましたが)書いてある。
これを人体にたとえるとわかりやすいかもしれない。医者は人間の体の内部、仕組み病気さまざまなことを知っている。じぶんが病気にかかったときは医者は体の内部のプロなので知識として非常によく理解しているだろう。ではおなかがどれくらい痛いのか、体のどの部分が変なのかといったところは医者よりも本人のほうが良く知っている(当たり前だが)。
なぜこのような例えを出したかというと、今の医者の例えの場合、個人と言う物は自分があってこそであり、医者が見ている自分というのは「人間としてのモデル」であって一切の内面性を含んでいないということである。

地理学においてももし地理学者の調べて知っている内容だけですべてOKとしてしまっては、見逃しているその地域の「本質」的な部分はどこに行ってしまったのか?それは無視をして良いものか?という疑問が生まれてくる。
なんとなくこれでなぜ地理学において感情的な結びつきが必要か唱えられたかがわかっていただけるとうれしいです。

このトポフィリアは『空間と経験』という本の内容に沿っているのだが、この本の中には少し面白い記述がある。
それは場所と空間の違いについてである。

空間とは感情的な結びつきがないのに対して、場所はそこに何かしらの結びつきが存在する

論文にも引用したのだが、たとえばモデルルームのようなところは「素敵な空間」とは言うものの「いい場所」とは言わない。それに対していざ自分の家となると「自分の場所」と言う。これはモデルルームが不特定多数の人に対して解放されており、あくまで全体を見せるだけのものでありそこに何かしらの感情的な結びつきを生むものではない。それに対して自分の部屋となるとそこには機能、経験、目的といったさまざまな要素が組み込まれ、感情的な結びつきが激しくなる。実際に身の回りで「空間」と「場所」について経験や目的があるものに対しては「場所」といわれていることが多いのです。
場所に対する感情的な結びつきが出来るのには特別時間が必要なわけではない。本の内容にもあるが、強さの方が重要なのである。
それはいつも通る何の変哲もない道は自分にとっては名前もない「空間」である。しかしそこで事故にあったとする。そうするとそこは急にいやな思い出ではあるが「思い出したくない場所」として自分の中に生まれてくる。
他にもとても楽しい出来事があったところ、驚きがあったところというのはその個人の中で場所に対して感情的な結びつきが生まれているであろう。この場所をトポフィリアとしての場所として私は捉えている。

作品や建築を作るときも同様、そこに作品(建築)が置かれることで、作品がある場所として何かしらの経験が生まれる。

トポフィリアとは非常に多義的ながら面白い概念である。
興味があるかたは「空間の経験」にあわせ「トポフィリア」を是非読んでみてください。(なんか広告みたいになってしまった)

それではまた次回!

2011年10月23日日曜日

第7回 芸術はわかりやすくあるべきか?

さて、またまた間は空きましたが第7回の更新

今回は少し趣向を変えて行きます。

「芸術はわかりやすくあるべきか?」について。
美大生なら一度はぶち当たる疑問のような気がします。私自身昔「一般の人に認められてこそいいのであって、無駄に敷居を高くするのはおかしい」と考えていた時期もありました。そのためコンセプト等を教科書のように必要以上に詳しく書いてみたり、説明してみたりした事もあります。

しかし、今、実際に調べたり、書いたりしているとそうでもないな、ということに気がつかされます。アインシュタインの言った言葉でとても面白く共感できる言葉がありました。

「物事を考える上で出来る限り簡潔にしていくのは良いことであり目指すべきところである。しかし簡略化、単純化をしてしまっては駄目である」

というものです。今の世の中殆どの物事が実は単純化されている。たとえば最近話題のスマートフォン。使い方はなんとなく指で触ればわかりますが、内部のプログラムやシステムといったところは非常に本来複雑でわからない部分が多いです。それでも成り立つのは私達がユーザーであるからです。ではこのスマートフォンを開発したappleふくめさまざまな企業の開発者も同じように単純に考えていたでしょうか?おそらく世の中の誰よりもスマートフォンの深い複雑な部分を研究してきたことだと思います。

さて今回の言いたかったこととして、よく「現代美術は良くわからない」(まさにこのブログの総タイトルのきっかけになった言葉です)といわれます。そして説明しても「難しくてわからない」となる場合が多いです。このブログもまだ難しいと感じる人もいるでしょう。同様に美術と深くかかわりがある哲学、思想といったものが絡んできた場合さらに難しくなると思います。

ここからは私個人の意見になるのですが、教育的美術はわかりやすくあるべきではあるが、わかりにくさも重要である。そしてそうでない美術はわかりにくくてよいが、わかりやすさも必要であるのではないかと思います。

たとえば幼少期に答えのある学問ばかりを教えられるのではなく、まったく答えが存在せず、自分の出したものが答えとなるようなものがあったら想像性はあがると思います。それを期待してさまざまなワークショップが立ち上がっているのも事実です。このワークショップでは子供達と何かを作るうえで何か描くにしてもそれが上手、下手というものではなく、作ったものが一つの答えになるものでその点では役に立つと思います。しかし作らせるものが難解なものであっては何をして良いのかわかりません。そういう意味である一定の目的のようなものはワークショップには大切であると思います。そしてこの答えがないというところでは考えさせるためにも多少のわかりにくさは必要なのではないかと。
たとえばあるテーマに沿って子供に家から何かを持ってきてもらうとする。たとえばそうですね、「赤い恐竜を作るので何か家にあるいらない赤いものを持ってきてください」と事前に連絡したとします。そのときに子供達は恐竜の質感と赤はどう結びつくか、これは恐竜のこの部分に使えるのではないかとさまざまな考えをします。しかし実際持ってきてみると他の人とはまったく違うものを持ってきていることも多いと思います。そこで他人と自分の考えの「違い」と言う物が理解できる可能性も生まれます。
このようなワークショップの場合、今述べたように「恐竜を作る」「赤いものには何があるか探す力を見出す」「他人と言う存在を少し理解させる」といったわかりやすい目的が存在します。これがわかりやすい部分である。それに対して「他人とは何か」という非常にわかりにくく答えが出しにくい哲学的な問題が含まれているのも確かです。
私はこのように何か<目的>がわかりやすいものを「教育主義的芸術」と考えています。
「教育主義的芸術」は何かしら教育のために使われる芸術とでも言い換えられるでしょう。

ではそうでない美術とは?
これこそが難しい問題です。学問としての美術はあまり聞いたことがありません。たとえば物理学、数学、文学、哲学はあっても美学はあまり親しみがないですね(昔そういう名前の雑誌はありましたが)
ただ面白いことに一つワークショップの記述とかぶるのは「他人とは違うところがある」ということで共通しているのではないかと思います。つまり「あるあるネタ」ではなく、その人独自の世界の見方を作品化していくことに殆どの作家は集中していると思います。さてしかしそこはわかり安くしてよいものなのでしょうか?教育主義的でない場合他人とは理解不可能なところが必ず存在するということをあらわすのに「結局こういうことでしょ」と簡略化されてしまっては作品を作る、解説する意味が生まれないのです。つまりどんどんと複雑化していくのは必然的にも思います。しかし、完全に孤立してしまっては表現につながらない。どこかきっかけとしてのわかりやすさも必要なのではないでしょうか?

これから私の大学では芸術祭がありますが、そこで展示をする方、単に一般の人にわかりやすくするのではなく、わかりやすくするのなら、それによって何を考えさせるか(わかりにくい部分や答えをどのように組み込むか、または問題を投げかけるか)を少し考えて見てはいかがでしょうか。