2011年5月17日火曜日

第4回 ミニマリズムともの派

えー間が開きましたが第4回行こうと思います。

相変わらず前回の予告無視で。

今回はミニマリズムともの派です。

美術館に行くとただ箱が置いてあるだけ、石があるだけ、木が一本たっているだけ、といった「これはどこら辺がアートなのだろうか?」と誰しもが最初に行き当たる立体がありますね。そこを今回は解説していこうとおもいます。

まず。ミニマリズムともの派はまったく違います。あまりにも違います。にもかかわらず作品がすごくシンプルなため西洋=ミニマリズム、東洋=もの派と勝手に似たようなものとしてとらえている人が多いのです。もう一度言います。ミニマリズムともの派はまったく違います。

さてミニマリズムやもの派の解説からしていきます。

ミニマリズムまたはミニマルアートとは形態や色といった要素を最小限まで突き詰めようとしています。
一言で言うとこれで終わりです。



でももうちょっと詳しく
あるものを見せるにあたりいろいろな要素が入るのを防いでいるのです。つまりもし「四角」という形を見せるのにそれが木彫でつくってしまうと、作家が四角くした行為であったり材質といった要素が入ってきてしまいます。作家や材質は要素なんです。つまりもし丸太を四角く彫ってみたとき、作家が違えば微妙に形も変わってくるでしょうし、材質が変わればそれでまた変わってしまいます。よってミニマリズムの作品は図面だけ書いて工場に発注したものや作家本人が作ったものではないもの、レディーメイドといわれる製品を並べたものなどいろいろあります。
今回はドナルド・ジャッドという作家をミニマリズムの例に挙げてみます。
彼は箱のようなものを等間隔で並べただけの作品などが有名です。彼の箱は展示するギャラリーに本当に箱の厚み分の隙間を開けて並べているだけです。それは箱と箱の間にある空間、その空間が並べてある箱とまったく同じ体積分になっており、とにかく作品は箱だけでなくその間にある空間も含めて作品と言っています。それではこの箱がもし作家の独自的な感覚で並べられていたらどうでしょう?まったくただの箱になります。
つまりミニマリズムの作品の難解さは一歩間違えればただの箱になってしまうように、非常に形をいじるのも、色いしても最小限まで削られてしまっているので美術作品を見慣れない人は本当にどのあたりが美術なのかと思ってしまうでしょう。長くなってきたのでまとめるとミニマリズムは当時作品として成り立つ「最小限」を目指した作品のつくり方の流行として思っておいてください。


そして今度はもの派です。
もの派はたまーーーにいますがmono派とつまり単一派?とかってに勘違いしているという人がいるうわさを以前耳にしましたが・・・・・・・・そんなわけありません。

え、まさかもの派のものって日本語の「物」?
そうです。日本で誕生した美術の流れなんです。
ミニマリズムと似ているところをあげるとあまり手を加えないところでしょうか。石をそのまま美術館に持ってきたり、土を掘って積み上げただけだったり。作品だけ見ると混乱する人も多いかもしれません。
しかしもの派は外国、特に西洋にはありえない思想が元になっているのです。東洋、特に日本は自然崇拝てきな文化がありますね。つまり富士山であったり滝といったもので、日本庭園なんか見ても、西洋の庭のようにきっちりと区分けするのではなく、曲がった川に、コケが生えた石を置くなど、小さなものに大自然を写しこむような文化があるのは分かると思います。
平たく言うとこの部分を作品化しようとしているのです。石を美術館に持ってきて見せようとしているのは石そのものなんです。だからモノ派といわれます。
じゃあ石見るだけならどこでもいいじゃんというあなた。まぁそうです。でも石・・・・じっくりみますか?
モノ派の石の場合いくつか意味があり、ひとつは先述の石そのものを見る。これは石というものは自然によって彫刻された形であり、それが今ここにある「形」としてみてみようという試み。人がつくった形は図面でどうにかなるかもしれないが、自然形態そのものによって偶然的に出来上がる形を見せるということ。もうひとつはそこから自然のすごさであったり自然そのものへの意識を持っていくということ。その1と被るけど、石をそのかたちまで持っていった自然というもののすごさであったり、石を見てそこから大自然を連想したりとちょっと俳句的な要素を兼ね備えているものなんです。
松尾芭蕉の俳句に「五月雨を、あつめてはやし、最上川」とありますが五月雨つまり、ただの大雨から最上川の豪流を連想させるということを日本人は自然とつなげてきているのです。この俳句を聞いた人は最上川にいったことがなくても近くの川が大雨で氾濫したときからさらに大きなものを想像すると思います。
というように、モノ派はミニマリズムと大きく違うのは作家が手を加えないのは自然に対しての想像の広がりを期待しているからという点でしょうか。
ミニマリズムはむしろ逆で自然とか作家の性格とかをその作品から読み取らせず単純に形や色といった部分だけを見せようとしているため、作品は手を加えない点で似ていても間逆の期待を鑑賞者に対して投げかけているのです。

作品の写真だけ見てミニマリズムなのかモノ派なのか判別つきにくいものも多いため、よくごっちゃになっているため西洋版、日本版くらいで分けてしまう人も多く見かけますが、あくまで逆。ミニマリズムは連想させない。ただある体積であったり数値であったりとものすごく物理的な部分のみ「しかみせない」ことに重点を置いており、モノ派はそのものから自然というものや物自体が持っている力強さや弱さ、またそのもの同士の比較といった見た目以上の部分までを連想させていろいろな見落としていた部分を「みせる」というのが重要ということです。

すでにミニマリズムもポストミニマリズム時代もおわり、モノ派もポストモノ派が終わっているのでいまさらってところもありますが、美術館でミニマリズムやモノ派の作品を見たときちょっと思い出してみてください。

それでは第5回は・・・・・もう予告しません。どうせ予告守らないし。気が向いたときまた書きます!ではでは

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